1950年イタリアグランプリ (XXI GRAN PREMIO D'ITALIA) は、1950年のF1世界選手権第7戦として、1950年9月3日にモンツァで開催された。
このレースでニーノ・ファリーナが初のタイトルを獲得、母国でタイトルを獲得した唯一のドライバーとなった。
背景
ファン・マヌエル・ファンジオがフランスグランプリで優勝し、ファンジオのポイントは26、チームメイトのルイジ・ファジオーリが24とその差は2ポイントであった。もう1人、ジュゼッペ・ファリーナも22ポイントと、4ポイントの間に3人がひしめき合っていた。ファジオーリは既に有効ポイントがカウントされる4戦全てが2位であり、優勝しても3ポイントが増えるだけであった。一方ファンジオとファリーナはポイント獲得が3戦のみであった。ファンジオのポイント獲得は全て1位であった。
タイトル獲得条件
- ファンジオ
- 優勝または2位でタイトルが確定。
- 3位、4位、5位で、ファリーナが2位もしくはそれ以下。
- ファステストラップを達成し、ファリーナだけが3位もしくはそれ以下。
- ノーポイントの場合、ファリーナが3位もしくはそれ以下で、ファステストラップを達成しない。4位かつファジオーリが優勝せず、ファステストラップも達成しない。
- ファジオーリ
- 優勝かつファステストラップを達成し、ファリーナが3位もしくはそれ以下、加えてファンジオがノーポイント。
- ファリーナ
- 優勝かつファステストラップを達成し、ファンジオが3位もしくはそれ以下。
- 3位かつファステストラップを達成し、ファンジオがノーポイント。
レース概要
フェラーリはアルファロメオの支配を打ち破るために新型の自然吸気4.5リッターエンジンを搭載したマシンを投入した。アルベルト・アスカリがそのマシンで予選で2番手に付け、ファン・マヌエル・ファンジオのアルファロメオ・158に続いた。レースが始まるとニーノ・ファリーナに先んじて走行したが、そのペースは新型車に負担となり、20ラップ目にリタイアとなった。その後はいつものようにアルファ同士のバトルとなった。ファンジオは2回リタイアする。初めは自身のアルファロメオ・158、2回目は引き継いだピエロ・タルッフィのマシン搭乗時であった。ファリーナがドリノ・セラフィーニのフェラーリ・375を引き継いだアスカリを率いてレースを制し、ルイジ・ファジオーリが3位に入った。タルボ・ラーゴ・T26Cのルイ・ロジェが4位、フィリップ・エタンセランが5位に入った。エタンセランは世界選手権においてポイント圏内でフィニッシュした最年長ドライバーとなった。26台の内7台のみが完走、ファリーナが優勝、ファンジオはノーポイント、ファジオーリが3位に入り、ファリーナが初のタイトルを獲得した。
エントリーリスト
- ^1 - ジョヴァンニ・ブラッコ、ルイジ・デ・フィリッピス、レグ・パーネル、ルイジ・プラーテ、フランコ・ボルドニはプラクティス前に撤退した。
- ^2 - ドリノ・セラフィーニはフェラーリ48番車で予選と決勝47ラップを走行した。アルベルト・アスカリは自身の車で既にリタイアしていたが、セラフィーニの車を引き継いで33ラップを走行した。
- ^3 - ピエロ・タルッフィはアルファロメオ60番車で予選と決勝25ラップを走行した。ファン・マヌエル・ファンジオは自身の車で既にリタイアしていたが、タルッフィの車を引き継いで9ラップを走行し、再びリタイアした。
予選
決勝
記録
- ポールポジション: ファン・マヌエル・ファンジオ - 1:58.6
- ファステストラップ: ファン・マヌエル・ファンジオ - 2:00.0
- ラップリーダー:
- ジュゼッペ・ファリーナ (1-13、16-80周目)
- アルベルト・アスカリ (14、15周目)
- 車両共有ドライバー
- Car #48: ドリノ・セラフィーニ (47周) , アルベルト・アスカリ (33周)
- Car #26: ピエロ・タルッフィ (25周) , ファン・マヌエル・ファンジオ (9周)
第7戦終了時点でのランキング
- 注:トップ5のみ表示。ベスト4戦のみがカウントされる。ポイントは有効ポイント、括弧内は総獲得ポイント。
参照
Unless otherwise indicated, all race results are taken from “The Official Formula 1 website”. 2007年6月5日閲覧。 Further information taken from “Silhouet”. 2013年4月16日閲覧。




